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2020年05月03日

豊臣秀吉の朝鮮出兵を考える

今日は加藤清正小西行長が朝鮮出兵(文禄の役)において漢城(ソウル)を陥落させた日。天正20(1592)年のこと。ここまで快進撃だったが、以後泥沼の戦いに。まあこの2度の朝鮮出兵は秀吉の晩年の妄動のひとつに挙げられているけど、本当にそうだったのか。自分は妄動と決めつけることには否定的です。

この朝鮮出兵の原因は議論が繰り返されてきていますが、未だに確定はしていません。
・主君であった織田信長が考えていた中国侵略の構想を実現しようとしたという説
・自らの嫡男である豊臣鶴松が亡くなったことがきっかけであったという説
・征服・領土拡大目的の説
・戦場のなくなった武士の不満をそらすという説
など様々な説が考えられています。

ただ一つ言える事として、少なくとも関白に就任した1585年にはその考えを抱いていることが手紙に示されており、秀吉は明の攻略には長期間の準備期間を設けていることがわかります。そこで近年有力になっているのが、国際情勢をみて秀吉はこの出兵を考えたという説です。当時の世界は、大航海時代の影響でスペイン・ポルトガルが大きく勢力を広げており、とくに両国はキリスト教の布教を有力な手段としつつ、アジアの植民地化を進め、その矛先はついに日本にも向けられました。秀吉はキリシタン禁令を出し、これまでの通例であった中国への朝貢を否定し(それどころか征服も視野)、南方諸国には朝貢を求めました。この強硬外交は、あきらかに日本の独立宣言であり、当時アジアで植民地化していなかった日本の地位を守るための一手だったという見方もできます。こういう立場を表明したからこそ、江戸幕府が行った外国船の入航制限、鎖国体制も可能となりました。実際に攻めてくる敵国から日本を守る際には、古来、さらには明治維新以降も緩衝帯になる朝鮮は日本にとって重要で、秀吉の行った朝鮮出兵は結果的には失敗に終わりましたが、その意図は防衛という観点で国際社会の中でみたときに、そこまでの暴挙でなかった可能性もあります。

この戦いの結果、日本は豊臣家から徳川家へと権力が移動して江戸時代がスタートし、中国はこの戦いで疲弊したこともあって、女真族によって新しい国である「清」が寛永21(1644)年に打ちたてられました。朝鮮は戦場となったため、当然疲弊し、大きな負担となったわけですが、一方で文化交流も行われ、陶工が日本に連れてこられて有田焼など各地で焼き物の革新が進み、日本軍の使用していた軍事品に近い武具が製造されたり、日本からトウガラシなどがもたらされ(清正が持ち込んだ?)、国民食であるキムチの製造へ大きな影響を与えたりしました(諸説あり)。


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Posted by らくたびスタッフ    at 10:09 │山村