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Posted by 京つう運営事務局  at 

2020年04月30日

偉大すぎる父を持つ子供は大変?

今日は織田信雄(おだのぶかつ)が亡くなった日。寛永7(1630)年、享年73歳。織田信長の次男として信長が亡き後、豊臣秀吉、徳川家康と時代の覇者を相手に巧みにしぶとく生き抜き、子孫は大名として織田家の血を現在に伝えた。個人的には大坂の陣で豊臣方の味方のふりをして家康に内通していた(であろう)部分が嫌だけど笑 まあそこは才能とほめることもできるが。。


京都では石碑が示している通り、信雄の屋敷跡が千利休の屋敷跡(名水「柳の水」あり)、加藤清正の屋敷跡、紀州藩の屋敷跡と同じ場所重なっているのが凄い。今でも馬場染工業(http://www.black-silk.com/)さんが歴史ある名水を使って黒染をされている。




織田信雄から連想して。。。歴史的に、自分が勝手に思っている親からみて「次男が可愛い説」。その説が「歴史を動かしかけた」事例をとりとめもなく挙げてみた。他にも結構ありそう。ちなみに信長は超合理的なので、弟(信雄)可愛さのあまり、歴史を動かす程の温情かけたりはしていない。

父:応神天皇 兄:仁徳天皇 弟:菟道稚郎子
  (全員が宇治上神社のご祭神)
父:藤原忠実 兄:藤原忠通 弟:藤原頼長
  (「保元の乱」を起してる!)
父:後嵯峨天皇 兄:後深草天皇 弟:亀山天皇
  (両統迭立の原因)
父:足利義満 兄:足利義持 弟:足利義嗣
  (あやうく天皇家が・・)
父:斎藤道三 兄:斎藤義龍 弟:斎藤孫四郎(今が旬!)
  (長良川の戦いへ)
父:徳川秀忠 兄:徳川家光 弟:松平忠長
  (春日局の活躍で終結)

~本日のフェイスブック補強版より~
  

Posted by らくたびスタッフ    at 18:00山村

2020年04月29日

京都にいた名奉行、知ってますか?

今日は初代京都所司代の板倉勝重が亡くなった日。寛永元(1624)。享年79歳。京都検定では2級で二条城の総奉行として出題される可能性があるかな。同じく作事をした大工頭の中井正清と縄張りをした藤堂高虎と3人セットで覚えておくといいかも。板倉勝重は高台寺の普請奉行もし、洛陽三十三か所観音霊場の札所のひとつ長圓寺も創建している。

豊臣秀吉が晩年に五奉行を置いたように、天下を治めていくのは武力でなく文治力になってくる。その点で板倉勝重はうってつけの人材。そもそも家康が浜松から駿府へ移った際にも普請奉行を務めており、実績を積んだ上での初代の京都所司代就任であった。その後は理路整然とした見事な裁きで評判を呼び、朝廷、幕府、民衆からも信頼を置かれた。

勝重の子である板倉重宗も名奉行だったが、剣術に夢中の後光明天皇を諌めるべく、「止めていただかないと、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と脅すと、「武士の切腹とやらを見たことはない、すぐにやってくれ」とせがまれて閉口した話が面白い。次男の重昌は、島原の乱の責任者として現地に赴いたが、乱の鎮圧に苦心し、松平信綱(通称「知恵伊豆」)が代わって派遣されることを聞いて、功を焦って最後は額を撃ち抜かれて非業の死を遂げている。

※ちなみに今日は今日は戦国武将の塙団右衛門(ばんだんえもん)が「大坂夏の陣」(1616年)の緒戦である紀州攻めにて亡くなった日。出生などは謎に包まれているが、秀吉の朝鮮出兵では加藤嘉明の家臣として、背中に青地に日の丸を入れた旗印を背負って、敵の船を三艘も乗っ取るなど手柄を立て、勇名を馳せた。

~山村のフェイスブック補強版~  

Posted by らくたびスタッフ    at 16:00山村

2020年04月27日

~凡将?愚将?謀将?評価の分かれる戦国武将~

今日は戦国時代を生き抜いた毛利輝元が亡くなった日。寛永2(1625)年4月27日、享年73(満72歳)没。輝元が最期の上洛をしたのが、元和5(1619)年8月、上洛していた徳川秀忠に毛利家の後事を託すためだったと言われる。面会したのは二条城。その時の宿所だったのが、妙傳寺とされる。



輝元については秀吉贔屓の自分からしたら豊臣家を救えなかったけしからん大名ということになるが、結果的には大国毛利家を幕末まで存続させることに成功した。関ヶ原の戦いで西軍の総大将として徳川家康と本気で渡りあっていたら。。戦国ファンなら誰しも思うことではないだろうか。その気概が欲しかった! 関ヶ原の戦いでは自ら大坂城にて傍観、吉川広家の徳川家内通、小早川秀秋の裏切りという「三本の矢」を行使してしまうんだからねぇ。。。ってこれも知らなかったという話もあるし。。。だとしたらどこまで統率力に欠けていたのかって話になるし。

毛利輝元を最後まで支えたのが、伯父の小早川隆景。毛利の両川(もう1人は兄の吉川元春)としての活躍が秀吉に気に入られ、主家の毛利家があるにも関わらず独立した大名として扱われ、のちに「五大老」として豊臣政権でも重きを成した。京都では大徳寺の黄梅院に庫裡、鐘楼、客殿などを寄進している。黄梅院は非公開寺院ながら京都春秋さんが窓
口で、期間を区切って公開される(現在は公開中止)。
https://kyotoshunju.com/temple/daitokuji-oubaiin/





~本日のTwitterの補強版です~
https://twitter.com/yamamura_junya

  

Posted by らくたびスタッフ    at 14:26山村

2020年04月26日

戦国時代に闊歩した公家のお話

今日は戦国時代の公家を代表する山科言継(やましなときつぐ)
の生まれた日。財政の最高責任者である内蔵頭を務めており、
「麒麟がくる」では織田信秀蹴鞠を教えに来ていた。
その他にも今川義元、のちには織田信長とも親交を深めて
公家社会で独自の地位を確立。50年にも及ぶ日記
『言継卿記』は一次資料として貴重。その武器はなんと。。。

ずばりお酒。めっちゃ酒豪だったとか。その武器を
人脈作りにフル活用。お酒の席は打ち解け合えると
いうことか。今川義元との宴席の後、義元のことを
「下戸だ」と評したらしいけど、その義元もその時
2~3升飲んでいたらしいから。。。一体どんだけ
飲むのか。。。行動派であった近衛前久もそうだけど、
こういう公家にも似合わぬ所が愛されたのかも。

山科言継の子である言経は勅勘をこうむって、
その後、四辻家から教遠が山科家を継ぎ、
続いてその弟である教利が山科家を継承したけど、
徳川家康の取り成しを受けた言経が山科家当主に
復帰すると、教利は猪熊家を新たに作って「猪熊教利」
となり、宮中と江戸幕府を揺るがせた猪熊事件を起こす
こととなる。そう考えると、山科家は悪名を残すことなく、
良かったとも言えるなぁと。

山科言継の墓は清浄華院にある。今年明智光秀の
念持仏公開で話題の廬山寺の北隣にあって浄土宗
の大本山の一つ。ここは幕末の尊攘派の公家で
あった姉小路公知の墓や、錦旗のデザインを考案した
玉松操の墓があるが、門前に墓があることを示す石碑
があるのは山科言継(写真の赤枠)のみ。
まだお参りに行けてないので次回こそ。



~本日のTwitterの補強版です~
https://twitter.com/yamamura_junya

  

Posted by らくたびスタッフ    at 16:53山村

2020年04月25日

応仁の乱は誰のせい?

3月初めより毎日twitterを始めた。
(今のところ毎日呟いてます)
twitter.com/yamamura_junya
今日は少し時間ができたので、
今日上げた内容をこちらにもご紹介。

今日(4月25日)は戦国時代を導いた応仁の乱の
きっかけを起こした一人、畠山政長が亡くなった日。
従兄弟の畠山義就と後継者争いを演じ、その争いに
対して政長についた細川勝元と、義就についた
山名宗全が戦火を大きくした。勝元と宗全は途中病死
するけど、乱が長引くのはこの畠山両者が和解
しなかったから。

つまりタイトルの答えはズバリ畠山家の内紛です。
きっかけがこの内紛ってのは知ってる人多いけど、
実は、長引いたのもこの両者がぶれずに争い
続けたから。特に畠山義就が諦めなかった。。。
(この4行twitterには書いてません)

応仁の乱勃発の地である上御霊神社(上京区)
の門前には石碑が。最近は神社の境内にもできた。




畠山政長の系統は畠山尾州家と呼ばれ、
その後紀州に勢力を移して、戦国時代には
片桐且元、さらには豊臣秀頼にも仕えたが、
最終的には徳川家康のもとで江戸幕府の
高家の内の一家となって、幕末まで続いている。
数奇な運命だなぁと。

ちなみに畠山家の屋敷跡は上京区の畠山町
として残る。yahoo!地図より 知ってました?京都の地名って
深いですね。






  

Posted by らくたびスタッフ    at 14:39山村

2020年04月20日

明智光秀ゆかりの地 その3

新型コロナウィスルの影響で「光秀ツアー」も
ひとやすみに入りました。ここからは再開まで
バーチャルになりますが、お楽しみください。

今回は人気エリアの東山で巡ります。
スタートは地下鉄東西線の東山駅から。
地上に上がると左手には白川が流れており、
橋の南東角には道しるべの石碑には、なんと!
延宝6(1678)年の銘が入っています。

白川沿いに歩いて2分ほどで、餅寅さんという
和菓子屋さんの手前の路地奥にあるのが
明智光秀の首塚。一説には小栗栖で落ち武者狩りに
よって命を落とした光秀の首を家来(溝尾庄兵衛)
が知恩院まで運ぶ際に、こちらで夜明けを迎えて
しまい、人に気づかれるのを恐れてこちらに埋めた
とも伝わります。
約300年前に創業した老舗の和菓子店餅寅さん
これまで管理してきたとか。NHK大河ドラマ前
からの定番である( ここ大事!)
名物 「 光秀饅頭 」 は、今年
飛ぶように売れていることでしょう笑



さらに白川沿いを歩くと行者橋があり、知恩院への
参道が見えてきます。この知恩院は長らく御影堂を
修理してきましたが、つい先日ようやく参拝可能と
なりました。光秀と知恩院との繋がりははっきりし
ませんが、光秀の主君である織田信長は、
足利義昭が二条城で信長に対して挙兵をした際に
知恩院に布陣し、勝利を得たことから、知恩院に
感謝して銀や米、土地を寄進しています。




知恩院を出ると、青蓮院の前を通り、旧東海道へ。
この道沿いに粟田神社があり、現在は
旅行守護のご利益でも知られています。
その参道沿いには粟田焼発祥の地の石碑も。
旧東海道はウエスティン都ホテルで突きあたり、
三条通に戻るとそこは蹴上という地名の残った
場所。琵琶湖疏水のインクラインが残っています。

インクラインの下の「ねじりまんぽ」と呼ばれる
トンネルを潜って進むと南禅寺の塔頭金地院
へ到着。こちらは小堀遠州作の鶴亀の庭が
特別名勝に指定されていますが、今回の
お目当てはその庭にいたる手前の「明智門」
簡素かつ優美な唐門で、もともとは光秀が
大徳寺に母の追善供養で寄進し、大徳寺で
建てられた門でしたが、金地院にあった伏見城
の唐門が豊国神社へ移されたため、明治初めに
金地院が大徳寺から購入したとされています。



かつてあった豊国神社の唐門は、もともと伏見城に
あっただけにスケールが大きく、今の明智門の方が
金地院の雰囲気にとてもマッチしているなと感じました。
コンパクトに回れるこのコース。
外出自粛が解除されたらぜひ巡ってみてください。

※京都三唐門のひとつである豊国神社の
唐門(国宝)はこんな感じです。豪華絢爛!!




  

Posted by らくたびスタッフ    at 18:00山村