2020年04月27日
~凡将?愚将?謀将?評価の分かれる戦国武将~
今日は戦国時代を生き抜いた毛利輝元が亡くなった日。寛永2(1625)年4月27日、享年73(満72歳)没。輝元が最期の上洛をしたのが、元和5(1619)年8月、上洛していた徳川秀忠に毛利家の後事を託すためだったと言われる。面会したのは二条城。その時の宿所だったのが、妙傳寺とされる。
輝元については秀吉贔屓の自分からしたら豊臣家を救えなかったけしからん大名ということになるが、結果的には大国毛利家を幕末まで存続させることに成功した。関ヶ原の戦いで西軍の総大将として徳川家康と本気で渡りあっていたら。。戦国ファンなら誰しも思うことではないだろうか。その気概が欲しかった! 関ヶ原の戦いでは自ら大坂城にて傍観、吉川広家の徳川家内通、小早川秀秋の裏切りという「三本の矢」を行使してしまうんだからねぇ。。。ってこれも知らなかったという話もあるし。。。だとしたらどこまで統率力に欠けていたのかって話になるし。
毛利輝元を最後まで支えたのが、伯父の小早川隆景。毛利の両川(もう1人は兄の吉川元春)としての活躍が秀吉に気に入られ、主家の毛利家があるにも関わらず独立した大名として扱われ、のちに「五大老」として豊臣政権でも重きを成した。京都では大徳寺の黄梅院に庫裡、鐘楼、客殿などを寄進している。黄梅院は非公開寺院ながら京都春秋さんが窓
口で、期間を区切って公開される(現在は公開中止)。
https://kyotoshunju.com/temple/daitokuji-oubaiin/
~本日のTwitterの補強版です~
https://twitter.com/yamamura_junya
輝元については秀吉贔屓の自分からしたら豊臣家を救えなかったけしからん大名ということになるが、結果的には大国毛利家を幕末まで存続させることに成功した。関ヶ原の戦いで西軍の総大将として徳川家康と本気で渡りあっていたら。。戦国ファンなら誰しも思うことではないだろうか。その気概が欲しかった! 関ヶ原の戦いでは自ら大坂城にて傍観、吉川広家の徳川家内通、小早川秀秋の裏切りという「三本の矢」を行使してしまうんだからねぇ。。。ってこれも知らなかったという話もあるし。。。だとしたらどこまで統率力に欠けていたのかって話になるし。
毛利輝元を最後まで支えたのが、伯父の小早川隆景。毛利の両川(もう1人は兄の吉川元春)としての活躍が秀吉に気に入られ、主家の毛利家があるにも関わらず独立した大名として扱われ、のちに「五大老」として豊臣政権でも重きを成した。京都では大徳寺の黄梅院に庫裡、鐘楼、客殿などを寄進している。黄梅院は非公開寺院ながら京都春秋さんが窓
口で、期間を区切って公開される(現在は公開中止)。
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Posted by らくたびスタッフ
at 14:26
│山村