京都にいた名奉行、知ってますか?

らくたびスタッフ  

2020年04月29日 16:00

今日は初代京都所司代の板倉勝重が亡くなった日。寛永元(1624)。享年79歳。京都検定では2級で二条城の総奉行として出題される可能性があるかな。同じく作事をした大工頭の中井正清と縄張りをした藤堂高虎と3人セットで覚えておくといいかも。板倉勝重は高台寺の普請奉行もし、洛陽三十三か所観音霊場の札所のひとつ長圓寺も創建している。

豊臣秀吉が晩年に五奉行を置いたように、天下を治めていくのは武力でなく文治力になってくる。その点で板倉勝重はうってつけの人材。そもそも家康が浜松から駿府へ移った際にも普請奉行を務めており、実績を積んだ上での初代の京都所司代就任であった。その後は理路整然とした見事な裁きで評判を呼び、朝廷、幕府、民衆からも信頼を置かれた。

勝重の子である板倉重宗も名奉行だったが、剣術に夢中の後光明天皇を諌めるべく、「止めていただかないと、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と脅すと、「武士の切腹とやらを見たことはない、すぐにやってくれ」とせがまれて閉口した話が面白い。次男の重昌は、島原の乱の責任者として現地に赴いたが、乱の鎮圧に苦心し、松平信綱(通称「知恵伊豆」)が代わって派遣されることを聞いて、功を焦って最後は額を撃ち抜かれて非業の死を遂げている。

※ちなみに今日は今日は戦国武将の塙団右衛門(ばんだんえもん)が「大坂夏の陣」(1616年)の緒戦である紀州攻めにて亡くなった日。出生などは謎に包まれているが、秀吉の朝鮮出兵では加藤嘉明の家臣として、背中に青地に日の丸を入れた旗印を背負って、敵の船を三艘も乗っ取るなど手柄を立て、勇名を馳せた。

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