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Posted by 京つう運営事務局  at 

2016年09月11日

《京阪電車&-洛を旅する-らくたび》“龍馬ウォーク/動乱の時代を駆け抜けた英雄 ≪ 坂本龍馬 ≫  散策レポート4

≪幕末の志士たちの史跡を訪ねて≫
9月3日にガイドの山下輝雄がご案内いたしました京阪ウォーク“龍馬ウォーク”の散策レポートです。



今回の幕末の志士たちゆかりの散策は、円山公園からねねの道、二年坂手前の龍馬坂に入り坂本龍馬の墓がある京都霊山護国神社へとめぐりました。

左は知恩院、右はねねの道へと続く円山公園


最初に円山公園にある坂本龍馬と中岡慎太郎像を訪ねました。銅像は、坂本龍馬が新しい時代を遠く見据えるかのような立ち姿、中岡慎太郎は座って新しい時代の足元を固めるような姿で建てられています。これは、土佐の高知県県人会の方によって昭和37年に作られ、銅像台座の名前の文字は元総理大臣・吉田茂のものだそうです。
坂本龍馬、中岡慎太郎像




坂本龍馬と中岡慎太郎は幕末の転換期に尽力した二人でしたが、志半ばにして1867年の11月15日に近江屋(四条河原町)で刺客に襲われ亡くなりました。これが近江屋事件です。木屋町三条の酢屋に滞在していた坂本龍馬は近江屋へ移り、逃げ道が確保されている土蔵の蔵に隠れ住んでいましたが風邪をひいて蔵から表の二階座敷に部屋を移し、中岡慎太郎と密談をしていたときに刺客に居場所がみつかり暗殺されました。

また、11月18日に、御陵衛士の屯所のリーダー伊東甲子太郎が新撰組に襲われ亡くなっています。佐幕派の新撰組にいた伊東甲子太郎はいつしか思想の違いから新撰組を脱退することを考え、孝明天皇を守ることを口実に新撰組を脱退し1867年6月にねねの道の東側にある場所(月真院)で孝明天皇を守る屯所を構えました。これをよく思わない新撰組の近藤勇が北辰一刀流の伊東甲子太郎を言葉巧みに酒の場へ誘い、酔った伊東甲子太郎を帰り道の本光寺(七条油小路)の門前で暗殺しました。七条油小路の事件です。ほんの数日間で幕末の志士たちが亡くなりました。
ねねの道にある孝明天皇の御陵衛士の屯所であった月真院




坂本龍馬と中岡慎太郎の亡骸は、二年坂手前の通り龍馬坂の先にある霊明神社で葬儀をされました。亡骸を担ぎながらこの坂道を葬列したのでしょうか、道には「幕末志士葬送の道」と記す看板がありました。

霊明神社に続く坂道



龍馬坂を上りきると左に京都霊山護国神社があります。明治天皇が招魂社として建立。幕末の志士たちを英霊としてお祀りしました。お墓には坂本龍馬、中岡慎太郎はじめ日清、日露、太平洋戦争の兵士7万3千柱が祀られています。京都における戦死者を祀る神社です。
京都霊山護国神社参拝



京都霊山護国神社の墓地は山肌の小高い所にあり、階段で上ると京都の市街が広がります。新しい時代を見守るかのように墓地は京都の街並みに向いてあります。今も国の礎となった幕末の志士たちを訪ねにたくさんの方がお参りされています。

幕末志士の名前が並ぶ墓石の地図



墓地から京都市内を見下ろす



幕末に活躍した志士たちの史跡をたどる他に、祇園のエリアを散策しました。

≪南座≫
建物は昭和4年の建築のため建物の耐震補強工事が予定され、現在は休館となっています。そして今年の12月の京の風物詩「顔見世興行」は先斗町歌舞練場でされることが決まっています。散策では、役者の名前が書かれた“まねき”が先斗町歌舞練場ではどのようにまねき上げされるのか話題になっていました。今年の12月検証したいと思います。
今は休館中の南座



≪白川南通≫
戦争前までは白川に「大友(だいとも)」という大きなお茶屋さんがあって、文芸芸者の女将を慕って当時の市長や文豪、文化人などが集まったそうです。特に吉井勇はこの祇園を愛し、お茶屋の座敷で詠んだ歌が白川沿いの石碑になっています。「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる」という歌です。常に枕元に白川の水の音が聞こえるように、とにもかくにも祇園が恋しいと言った、祇園への哀愁をあらわした歌です。石碑は吉井勇が70歳の古希に仲間たちから贈られたもので昭和30年に建てられました。11月8日には毎年「かにかくに祭」が行われ、祇園をこよなく愛した吉井勇を偲んで芸舞妓が白菊を手向けお茶のお点前などを披露します。祇園の中心であり象徴的なエリアです。

吉井勇のかにかくに碑



≪進々堂≫
祇園の芸舞妓さんから親しまれているお店の進々堂さん。祇園の喫茶店で芸舞妓さんがお稽古帰りなどに顔出しされるお店です。また、芸舞妓さんが、12月13日の事始めにお世話になったお店や得意先へご挨拶される際に渡される「福玉」をこちらのご主人が作っておられます。淡いピンクと白の可愛い丸い入れ物(ドッジボールの大きさ)の中にミニチュアサイズの郷土玩具や縁起物が入っています。ご主人は年間600個ほど作られるとか。この福玉の開封は除夜の鐘が鳴ってからのお楽しみという約束事があるそうです。お正月には、少なからず京都の子供もお年玉と一緒にこの福玉を楽しみにしています。

芸舞妓さんが顔出しされる進々堂さん



福玉



≪八坂神社≫
祭神は素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神(8人の子供を総称している神)です。昔は祇園社や祇園感神院とも呼ばれ、今でも「祇園さん」の名でも親しまれています。八坂神社といえば祇園祭。祇園祭の由来は869年、日本全国に疫病が流行り、疫病を鎮めるための神事の御霊会です。当時、日本の国の数は66国。神泉苑に66国の剣鋒を立てて、神泉苑の水で剣鋒を清め神輿を出して疫病を鎮めました。後に町衆もこの御霊会に参加し、山鉾を作り巡行で町中を清め、神事の神輿が巡行する現在の形の祇園祭となりました。

青空と朱塗りの楼門が美しい




今賑やかな観光地の祇園界隈も歴史を細かく紐解けば幕末の志士たちが活躍していた時もあり、とても不思議な感じがしました。京都は時代が幾重にも交差する町なのだなと実感する散策でした。私は特に幕末時代を知らなかったので、この散策では山下ガイドにくいついて聞いておりました。また、幕末ゆかりの地を訪ねて勉強したいと思います。

らくたび 谷口
  

Posted by らくたびスタッフ    at 20:50谷口京阪・祇園四条駅観光案内所