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2020年11月27日

豊国廟から清水が見えた! ~ ざんげの旅1 ~

こんにちは。らくたび出版スタッフの戸塚です。

先週の3連休はいかがお過ごしでしたか? もみじ散歩を楽しまれた方も多かったことでしょう。

さて、私はというと・・・・・・
京都の旅行ガイドブックを作る仕事をしておりまして、多いものでは1冊に700件ほどの社寺・グルメ・ショップを掲載します。「全部行ったの?」と、よく聞かれますが、全部は行けません。。。で、時間があるときに現地に行くことを、ざんげの旅と呼んでいます。

今日はそのひとつ、豊臣秀吉が眠る阿弥陀ヶ峰豊国廟を紹介します。

豊国廟は、秀吉を祀る豊国神社の飛び地境内です。
秀吉の死後、墓のある阿弥陀ヶ峰に創建されましたが、家康により力をそがれ、朽ちるにまかせ明治維新を迎えます。ところが、そこで秀吉の株が急上昇。「武士でありながら、関白(公家)として天皇に仕えたのは偉い!」と、1878年に明治政府の手で、神社が現在の地に復興されました。

堂々たる国宝の唐門の前には、陶器の秀吉像。阪神淡路大震災で破損したものが修理され、昨年の新天皇即位を機に、再び境内にお目見えしました。
豊国神社 秀吉像


神社を後にし、東山七条の交差点を東へ進み豊国廟参道へ。この道は、京都女子大の学生が行き来するので女坂とも呼ばれます。
豊国神社 女坂


途中には新日吉神宮。鳥居の左の小道を進みます。
新日吉神宮


京女の駐車場を通り抜けた先に、豊国廟の鳥居が見えましたICON35 神社からここまでは20分あまり。
豊国神社 鳥居


授与所で拝観料100円を払い、標高196mの阿弥陀ヶ峰山頂へ。
豊国神社 石段


石段には、秀吉の享年にちなみ、63段ごとに踊り場が設けられています。頂上までは489段、道のりは遠い・・・・・face07
豊国神社 石段踊り場


中門が見えたら、313段をクリア。全体の3分の2まで来たよicon10
豊国神社 中門


登り始めてから約20分で頂上に到着。秀吉のお墓です。
豊国神社 豊国廟


そして、授与所で宮司さんが教えてくださったイチオシの場所へ。お墓の左へ回り込むと、こんな風景に出会えます。今年、本堂の大屋根の修復が完了したばかりの清水寺です。こんなにハッキリ見えるとは感激face02
豊国神社から見える清水寺




  

Posted by らくたびスタッフ    at 00:41戸塚

2020年11月15日

初めての山城は小谷城~麒麟がくる4~

こんにちは。らくたび出版スタッフの戸塚です。

日曜日に麒麟を見た後、ブログの記事を考えるのがルーティーンになってきましたface01
今日の紀行は、浅井長政の小谷城でしたね。

10年ほど前、大河ドラマでをやっていたときに小谷城へ行ったことを思い出し、早速写真を探してみると。。。ショックです。頑張って登ったのに、撮った写真はこのブログの2枚だけ。


伏見の子であった私は、城といえば伏見桃山城。天守閣があるものだとばかり思っていました。

ボランティアガイドの方は、石垣の造りとか、この曲輪は××の跡だとか説明してくださってたのですが、当時の私には、ただの山道にしか見えませんでしたface07。恥ずかしながら、城というからには、この先に天守閣があるICON35と信じていたのです。

それでも、この写真ICON141を撮ったのは、胸にグッと来るものがあったからです。
はるか琵琶湖にぽっかりと浮かぶ竹生島、そして写真の左手にある山は虎御前山

この小谷山の目と鼻の先にある山に信長は陣を敷き、姉川の戦いから3年後、1573年に浅井家を滅亡に追い込んだのでした。
この臨場感に、初めて歴史が見えたと感じた一瞬でした。






  

Posted by らくたびスタッフ    at 23:15戸塚

2020年11月10日

日本のポンペイ・一乗谷 ~麒麟がくる3~

こんにちは。らくたび出版スタッフの戸塚です。

先日の麒麟のテーマは金ヶ崎の退き口
信長が浅井長政の裏切りに合い、命からがら京へ逃げ帰るという場面です。

このときに攻めようとしたのは朝倉家の本拠である一乗谷。廃墟であることから、火山灰に埋もれたイタリアのポンペイにたとえられることもあります。

けれど、京都でも金閣寺・銀閣寺・醍醐三宝院のたった3件しかない特別名勝・特別史跡のダブル指定を受けています。かんたんに言うと、見目麗しく、歴史的な価値も最上級ということです。


京都からサンダーバードで1時間半、福井駅で永平寺行きのバスに乗り換えて約20分で到着。山あいの谷の中央に川が流れ、当時はその両側に北陸の小京都と呼ばれる町が広がりました。


川の右岸には、朝倉義景の屋敷門が復元されています。


そして左岸には、家臣らの屋敷。


お茶碗を売っている店もありました。


この辺りで、お腹が減ってきたので、行ってみたかったお蕎麦屋さんへ。
この利休庵、実は、あのソフトバンクのお父さんの実家とされています!詳しくはこちら


いただいたのは、もちろんおろし蕎麦。だけど、甘くみていました。京都の辛さを1とすると、こちらは5くらい。ピリッとした風味が食欲をそそります。


昨年らくたびで編集したまっぷる明智光秀をお持ちの方は、P68に金ヶ崎、P85に一乗谷が掲載されてますので、ぜひ併せてご覧くださいICON96  

Posted by らくたびスタッフ    at 07:44戸塚

2020年11月06日

御所の何コレ? ~南北通り抜け 後半~



こんにちは。らくたび出版スタッフの戸塚です。
前回に続き、御所通り抜けさんぽの後半です。

さて、出水の小川を北へ進むと、たたずんでいるのは白雲神社。江戸時代、このあたりは公家の豪邸が並ぶ高級住宅街で、こちらのお宮も、かつては西園寺家の邸宅でした。また、明治時代に西園寺公望が立命館を開いたのも、まさにこの地です。


その家業は琵琶ICON64であったことから、音楽の神様として親しまれています。実は、私、かなり真剣に楽器をやっています。しかも、今、腱鞘炎で不調のまっただなかICON47。ここはケチってはいけません。はやく治りますようにと願いをしたためました。


その先に見えるのは蛤御門。幕末に激戦が繰り広げられた禁門の変の舞台です。


この辺りは地面に注目ICON98。御所の正門である建礼門に向かってくっきりと刻まれているカーブは、一体なんでしょうICON36


地元の人たちは、この20センチ幅の御所の細道を、自転車に乗ってすごいスピードで走り抜けていきます。逆にいうと、この轍(わだち)の上を歩くことは、車道を歩くようなものicon10。危険なので注意しましょう。


まだまだあります。ご当地マンホールは「宮」の文字が刻まれた特別仕様。


御所の入り口清所門には、手荷物検査を待つ人たちの行列ができていました。


ほっと一息つきたくなったら、中立売休憩所がおすすめです。おうどんや定食もあるし、注文しなくても手作りランチやコンビニ弁当を持ち込んで食べることもできますicon28。Go toにも対応してましたよ。


背の高いイチョウが見えたら、ボチボチ通り抜けさんぽも終わり。ことしの紅葉は、少し早そうですね。

  

Posted by らくたびスタッフ    at 22:28戸塚

2020年11月03日

御所で見つけた秋ざくら ~南北通り抜け 前半~



こんにちは。出版スタッフの戸塚です。

先日の日曜日は、暑くもなく寒くもなく、おさんぽ日和でしたね。という訳で、京都御所を南から北へ通り抜けてみました。

南の端では、小さな日本庭園が迎えてくれます。かつては、摂政や関白を務める九條家が屋敷を構えました。明治時代に、天皇に続き東京へと住まいを移しますが、庭とお茶室の拾翠亭だけがひっそりと残され、木~土曜日はお茶室が100円で公開されています。


その西には閑院宮邸跡。なんとこちらは無料です。

なんだか面白い取り合わせの看板たち。閑院宮邸は、御苑を管理する環境省の事務所にもなっています。もし、テニスが趣味!という方は、予約さえすれば、旅の思い出に御所でテニスICON54なんかもできちゃうんです(注:予約は窓口のみ)。内部は御苑の歴史や自然についての展示がされています。


また、お庭のさんぽも楽しめますよ。


先へ進むと宗像神社。こちらも元は花山院家の邸宅でした。一歩鳥居をくぐると、その左手には意外なものがface08


昭和44年に京都の観光業者が協力し、道案内の神である猿田彦をお祀りしたそうです。それにしても、このタイミングでこの京都観光神社にたどり着いたのは、運命かもしれません。こちらの神様も、らくたびも今が正念場face07。よ~く、お参りしておきました。


お宮を出ると、出水の小川。色づき始めた木々の下でピクニックを楽しむ親子、半そで姿で水遊びに興じる子供たち・・・・・・。


そして、その通りをはさんだところで出会えました。十月桜にICON144。まだ背の低い若い木なので、足を止めて愛でる人はほとんどありません。その姿がとっても健気で、応援したくなります。


春夏秋と3つの季節を同時に見たような気分になる一日でしたface02。御所通り抜けの後半も、近いうちに投稿します。  

Posted by らくたびスタッフ    at 00:06戸塚

2020年10月26日

光秀が愛でたかもしれない石 ~麒麟がくる2~

こんにちは。出版スタッフの戸塚です。

昨日の麒麟は、将軍義昭のための御所を建築する場面から始まりましたね。

石の出所を聞く信長に、「慈照寺(銀閣寺)から」と家臣は答えます。光秀も、この工期ではアリモノを他所から持ってくるしかない・・・・・・と超現実的なセリフ。
後に、その二条御所は信長と義昭が争った際に破壊され、残された門や石は安土へと運ばれて、信長の城になりました。

ところがです。御所で義昭や信長、光秀が目にしたかもしれない石を、今も見れるんです。


醍醐寺三宝院の藤戸石がそれです。


ときは平安。源平の合戦のさなか、今の岡山県の藤戸で海をはさみ両軍は膠着状態に。そんななか、ひとりの兵が漁師から浅瀬の場所を聞き出し、馬で海を渡り、源氏を勝利に導きます。浅瀬の目印になったのが藤戸石でした。

それから数百年後、この武運を招く石は京都に現れます。
細川家の庭 → 信長二條御所へ → 秀吉聚楽第へ → 秀吉三宝院へ と権力の象徴として、戦国武将の手から手へ伝えられたのでした。

醍醐寺は桜が知られていますが、紅葉の季節も捨てがたい魅力があります。ぜひ、この秋に Go to してみてくださいねICON129ICON130ICON131。  

Posted by らくたびスタッフ    at 22:17戸塚

2020年10月22日

祝! 国宝 八坂神社に行ってみた ~全力で疫病退散~

こんにちは。出版スタッフの戸塚です。

八坂神社の本殿が国宝に指定されました。おめでとうございますICON59
さっそく行ってみると、そこで見たものは・・・・・・。


疫病退散その1 手水舎
あらら、以前は手水に柄杓が置いてあったのですが、感染防止のためでしょうか。かけ流しタイプ?になっていました。


疫病退散その2 茅の輪
本来は夏に無病息災を願ってくぐる大きな茅の輪がお目見え。行列のできる人気厄除けスポットのようです。


疫病退散その3 音姫
驚いたのがこれ。鈴を鳴らす縄が柵の内側に垂らされて、お参りができない・・・・・・。


お手洗いで気配を消すための「音姫」の進化形というのでしょうか。手をかざすとガランガランICON124という音が響きました。


8月に八坂神社へ行ったとき、人気(ひとけ)のない静まりかえった境内に、お参りする人の拍手(かしわで)が響きわたる場面に出くわしました。空気がキリッとひきしまり、そこへ近づいてはいけないような気持ちになったことを思い出します。
それから3ヶ月。着物姿の観光客も見られ、少しずつ京都に活気が戻ってきましたねface02。  

Posted by らくたびスタッフ    at 21:53戸塚

2020年10月20日

光秀が京にやってきた ~麒麟がくる1~

こんにちは。出版スタッフの戸塚です。

先日の大河ドラマ麒麟がくるをご覧になりましたか?
光秀もようやく京へ入り、足利義昭のもとで活躍し始めましたね。

ドラマで取り上げられていた本圀寺の変の舞台は、今の西本願寺の近くにありました。堀川五条を上がった西側の巨大な石碑が本圀寺跡の目印です。現在は山科に移転しています。


また、近くの妙恵会墓地には、なんとあの松永久秀の墓がひっそりとたたずんでいるんですICON35


わざわざ、観光に訪れるエリアではないかもしれないけれど、堀川通り沿いにはホテルが建ち並びます。旅の途中に、ちょっと時間があいたら訪れてみてください。そうそう、パンの町京都が誇るまるき製パン所も歩いて行けますよ。

ちなみに、昨年らくたびで編集したまっぷる明智光秀をお持ちの方は、P48~49に本圀寺が掲載されてますので、ぜひ併せてご覧くださいICON96  

Posted by らくたびスタッフ    at 01:11戸塚

2020年10月07日

「京都浪漫」出演のお知らせと雑感

久しぶりの更新となりました。
先月の初めに、これまた久しぶりのテレビ撮影があり、
丸一日かけて明智光秀ゆかりの地の説明をしてきました!

番組は「京都浪漫」という京都をテーマにした
様々な切り口で展開している番組で、今回は明智光秀が
テーマとなったことから、出演依頼をいただきました。

https://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/roman/

出演直前に台本をちらりと読ませてもらったのですが、
山村のセリフもきちんと記入されており、これがまた
自分のまさにしゃべりたいような内容に仕上がって
いたのに驚きました。事前に調べてくださったようです。

とはいえ、当日はほぼぶっつけ本番でのぞんで
おります!ぜひそういった臨場感も含めて番組を
楽しんでいただけましたら幸いです。

放送ですがKBS京都さん
10月11日(日)午後9時~9時55分
(再放送が10月25日(日)同時刻)
BS11(全国放送)さん
10月19日(月)午後8時~8時55分になります。

お楽しみに♪  

Posted by らくたびスタッフ    at 11:13山村

2020年05月04日

キリシタン大名 大伴宗麟と京都

今日は豊前豊後(福岡県東部と大分県)の領主でキリシタン大名として知られた大友宗麟が生まれた日。享禄3(1530)年のこと。一時九州北部を制圧し、大友家の全盛期を演出したが島津家の侵攻を赦し、豊臣家の援助を受ける中で亡くなった。家臣にも恵まれていた(あの立花道雪高橋紹運ですよ!紹運の子が立花宗茂!)のに晩年は失政も多く勿体なかった。

宗麟が深く帰依していた大徳寺の徹岫宗九(てっしゅう そうきゅう)禅師を開祖に迎えて、自らの菩提寺として創建したのが瑞峯院で、天文4(1535)年のこと。方丈を中心に南・北・西の三庭で構成。全て重森三玲氏によって昭和36年作庭されており、北と南の庭園を以下に紹介。大徳寺では常時拝観できる貴重な寺院だ。

よく紹介される北側の庭園は、閑眠庭(かんみんてい)と呼ばれ、キリシタン大名であった大友宗麟の思いを汲んだ枯山水の庭で、東側にあるキリシタン灯籠を背にして見ると、7個の石組みが十字架を形成。「閑眠高臥して青山に対す」という禅語から命名。赤線で十字を入れてみた。この庭はめちゃくちゃわかりやすい。



方丈の南側に位置する蓬莱山式庭園は、独坐庭(どくざてい)と呼ばれ、大刈込と巨石で表した蓬萊山からのびる半島と小島に打ち寄せる荒波を砂紋で描く。百丈禅師が呼唱した「独坐大雄峰」という禅語から命名。重森さんは寺院のもつ歴史や文化と禅の精神の融合した芸術的表現が見事だなぁと。



らくたび文庫の2巻!京の庭NAVI~枯山水編~(全シリーズでもベスト5に入る売れ筋本です。)の表紙を飾っているのがこの独坐庭です。ぜひ今一度見てください。ちなみこの本は弊社の若村代表とカメラマンの福尾行洋さんの力作です!



  

Posted by らくたびスタッフ    at 10:31山村

2020年05月03日

豊臣秀吉の朝鮮出兵を考える

今日は加藤清正小西行長が朝鮮出兵(文禄の役)において漢城(ソウル)を陥落させた日。天正20(1592)年のこと。ここまで快進撃だったが、以後泥沼の戦いに。まあこの2度の朝鮮出兵は秀吉の晩年の妄動のひとつに挙げられているけど、本当にそうだったのか。自分は妄動と決めつけることには否定的です。

この朝鮮出兵の原因は議論が繰り返されてきていますが、未だに確定はしていません。
・主君であった織田信長が考えていた中国侵略の構想を実現しようとしたという説
・自らの嫡男である豊臣鶴松が亡くなったことがきっかけであったという説
・征服・領土拡大目的の説
・戦場のなくなった武士の不満をそらすという説
など様々な説が考えられています。

ただ一つ言える事として、少なくとも関白に就任した1585年にはその考えを抱いていることが手紙に示されており、秀吉は明の攻略には長期間の準備期間を設けていることがわかります。そこで近年有力になっているのが、国際情勢をみて秀吉はこの出兵を考えたという説です。当時の世界は、大航海時代の影響でスペイン・ポルトガルが大きく勢力を広げており、とくに両国はキリスト教の布教を有力な手段としつつ、アジアの植民地化を進め、その矛先はついに日本にも向けられました。秀吉はキリシタン禁令を出し、これまでの通例であった中国への朝貢を否定し(それどころか征服も視野)、南方諸国には朝貢を求めました。この強硬外交は、あきらかに日本の独立宣言であり、当時アジアで植民地化していなかった日本の地位を守るための一手だったという見方もできます。こういう立場を表明したからこそ、江戸幕府が行った外国船の入航制限、鎖国体制も可能となりました。実際に攻めてくる敵国から日本を守る際には、古来、さらには明治維新以降も緩衝帯になる朝鮮は日本にとって重要で、秀吉の行った朝鮮出兵は結果的には失敗に終わりましたが、その意図は防衛という観点で国際社会の中でみたときに、そこまでの暴挙でなかった可能性もあります。

この戦いの結果、日本は豊臣家から徳川家へと権力が移動して江戸時代がスタートし、中国はこの戦いで疲弊したこともあって、女真族によって新しい国である「清」が寛永21(1644)年に打ちたてられました。朝鮮は戦場となったため、当然疲弊し、大きな負担となったわけですが、一方で文化交流も行われ、陶工が日本に連れてこられて有田焼など各地で焼き物の革新が進み、日本軍の使用していた軍事品に近い武具が製造されたり、日本からトウガラシなどがもたらされ(清正が持ち込んだ?)、国民食であるキムチの製造へ大きな影響を与えたりしました(諸説あり)。
  

Posted by らくたびスタッフ    at 10:09山村

2020年04月30日

偉大すぎる父を持つ子供は大変?

今日は織田信雄(おだのぶかつ)が亡くなった日。寛永7(1630)年、享年73歳。織田信長の次男として信長が亡き後、豊臣秀吉、徳川家康と時代の覇者を相手に巧みにしぶとく生き抜き、子孫は大名として織田家の血を現在に伝えた。個人的には大坂の陣で豊臣方の味方のふりをして家康に内通していた(であろう)部分が嫌だけど笑 まあそこは才能とほめることもできるが。。


京都では石碑が示している通り、信雄の屋敷跡が千利休の屋敷跡(名水「柳の水」あり)、加藤清正の屋敷跡、紀州藩の屋敷跡と同じ場所重なっているのが凄い。今でも馬場染工業(http://www.black-silk.com/)さんが歴史ある名水を使って黒染をされている。




織田信雄から連想して。。。歴史的に、自分が勝手に思っている親からみて「次男が可愛い説」。その説が「歴史を動かしかけた」事例をとりとめもなく挙げてみた。他にも結構ありそう。ちなみに信長は超合理的なので、弟(信雄)可愛さのあまり、歴史を動かす程の温情かけたりはしていない。

父:応神天皇 兄:仁徳天皇 弟:菟道稚郎子
  (全員が宇治上神社のご祭神)
父:藤原忠実 兄:藤原忠通 弟:藤原頼長
  (「保元の乱」を起してる!)
父:後嵯峨天皇 兄:後深草天皇 弟:亀山天皇
  (両統迭立の原因)
父:足利義満 兄:足利義持 弟:足利義嗣
  (あやうく天皇家が・・)
父:斎藤道三 兄:斎藤義龍 弟:斎藤孫四郎(今が旬!)
  (長良川の戦いへ)
父:徳川秀忠 兄:徳川家光 弟:松平忠長
  (春日局の活躍で終結)

~本日のフェイスブック補強版より~
  

Posted by らくたびスタッフ    at 18:00山村

2020年04月29日

京都にいた名奉行、知ってますか?

今日は初代京都所司代の板倉勝重が亡くなった日。寛永元(1624)。享年79歳。京都検定では2級で二条城の総奉行として出題される可能性があるかな。同じく作事をした大工頭の中井正清と縄張りをした藤堂高虎と3人セットで覚えておくといいかも。板倉勝重は高台寺の普請奉行もし、洛陽三十三か所観音霊場の札所のひとつ長圓寺も創建している。

豊臣秀吉が晩年に五奉行を置いたように、天下を治めていくのは武力でなく文治力になってくる。その点で板倉勝重はうってつけの人材。そもそも家康が浜松から駿府へ移った際にも普請奉行を務めており、実績を積んだ上での初代の京都所司代就任であった。その後は理路整然とした見事な裁きで評判を呼び、朝廷、幕府、民衆からも信頼を置かれた。

勝重の子である板倉重宗も名奉行だったが、剣術に夢中の後光明天皇を諌めるべく、「止めていただかないと、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と脅すと、「武士の切腹とやらを見たことはない、すぐにやってくれ」とせがまれて閉口した話が面白い。次男の重昌は、島原の乱の責任者として現地に赴いたが、乱の鎮圧に苦心し、松平信綱(通称「知恵伊豆」)が代わって派遣されることを聞いて、功を焦って最後は額を撃ち抜かれて非業の死を遂げている。

※ちなみに今日は今日は戦国武将の塙団右衛門(ばんだんえもん)が「大坂夏の陣」(1616年)の緒戦である紀州攻めにて亡くなった日。出生などは謎に包まれているが、秀吉の朝鮮出兵では加藤嘉明の家臣として、背中に青地に日の丸を入れた旗印を背負って、敵の船を三艘も乗っ取るなど手柄を立て、勇名を馳せた。

~山村のフェイスブック補強版~  

Posted by らくたびスタッフ    at 16:00山村

2020年04月27日

~凡将?愚将?謀将?評価の分かれる戦国武将~

今日は戦国時代を生き抜いた毛利輝元が亡くなった日。寛永2(1625)年4月27日、享年73(満72歳)没。輝元が最期の上洛をしたのが、元和5(1619)年8月、上洛していた徳川秀忠に毛利家の後事を託すためだったと言われる。面会したのは二条城。その時の宿所だったのが、妙傳寺とされる。



輝元については秀吉贔屓の自分からしたら豊臣家を救えなかったけしからん大名ということになるが、結果的には大国毛利家を幕末まで存続させることに成功した。関ヶ原の戦いで西軍の総大将として徳川家康と本気で渡りあっていたら。。戦国ファンなら誰しも思うことではないだろうか。その気概が欲しかった! 関ヶ原の戦いでは自ら大坂城にて傍観、吉川広家の徳川家内通、小早川秀秋の裏切りという「三本の矢」を行使してしまうんだからねぇ。。。ってこれも知らなかったという話もあるし。。。だとしたらどこまで統率力に欠けていたのかって話になるし。

毛利輝元を最後まで支えたのが、伯父の小早川隆景。毛利の両川(もう1人は兄の吉川元春)としての活躍が秀吉に気に入られ、主家の毛利家があるにも関わらず独立した大名として扱われ、のちに「五大老」として豊臣政権でも重きを成した。京都では大徳寺の黄梅院に庫裡、鐘楼、客殿などを寄進している。黄梅院は非公開寺院ながら京都春秋さんが窓
口で、期間を区切って公開される(現在は公開中止)。
https://kyotoshunju.com/temple/daitokuji-oubaiin/





~本日のTwitterの補強版です~
https://twitter.com/yamamura_junya

  

Posted by らくたびスタッフ    at 14:26山村

2020年04月26日

戦国時代に闊歩した公家のお話

今日は戦国時代の公家を代表する山科言継(やましなときつぐ)
の生まれた日。財政の最高責任者である内蔵頭を務めており、
「麒麟がくる」では織田信秀蹴鞠を教えに来ていた。
その他にも今川義元、のちには織田信長とも親交を深めて
公家社会で独自の地位を確立。50年にも及ぶ日記
『言継卿記』は一次資料として貴重。その武器はなんと。。。

ずばりお酒。めっちゃ酒豪だったとか。その武器を
人脈作りにフル活用。お酒の席は打ち解け合えると
いうことか。今川義元との宴席の後、義元のことを
「下戸だ」と評したらしいけど、その義元もその時
2~3升飲んでいたらしいから。。。一体どんだけ
飲むのか。。。行動派であった近衛前久もそうだけど、
こういう公家にも似合わぬ所が愛されたのかも。

山科言継の子である言経は勅勘をこうむって、
その後、四辻家から教遠が山科家を継ぎ、
続いてその弟である教利が山科家を継承したけど、
徳川家康の取り成しを受けた言経が山科家当主に
復帰すると、教利は猪熊家を新たに作って「猪熊教利」
となり、宮中と江戸幕府を揺るがせた猪熊事件を起こす
こととなる。そう考えると、山科家は悪名を残すことなく、
良かったとも言えるなぁと。

山科言継の墓は清浄華院にある。今年明智光秀の
念持仏公開で話題の廬山寺の北隣にあって浄土宗
の大本山の一つ。ここは幕末の尊攘派の公家で
あった姉小路公知の墓や、錦旗のデザインを考案した
玉松操の墓があるが、門前に墓があることを示す石碑
があるのは山科言継(写真の赤枠)のみ。
まだお参りに行けてないので次回こそ。



~本日のTwitterの補強版です~
https://twitter.com/yamamura_junya

  

Posted by らくたびスタッフ    at 16:53山村

2020年04月25日

応仁の乱は誰のせい?

3月初めより毎日twitterを始めた。
(今のところ毎日呟いてます)
twitter.com/yamamura_junya
今日は少し時間ができたので、
今日上げた内容をこちらにもご紹介。

今日(4月25日)は戦国時代を導いた応仁の乱の
きっかけを起こした一人、畠山政長が亡くなった日。
従兄弟の畠山義就と後継者争いを演じ、その争いに
対して政長についた細川勝元と、義就についた
山名宗全が戦火を大きくした。勝元と宗全は途中病死
するけど、乱が長引くのはこの畠山両者が和解
しなかったから。

つまりタイトルの答えはズバリ畠山家の内紛です。
きっかけがこの内紛ってのは知ってる人多いけど、
実は、長引いたのもこの両者がぶれずに争い
続けたから。特に畠山義就が諦めなかった。。。
(この4行twitterには書いてません)

応仁の乱勃発の地である上御霊神社(上京区)
の門前には石碑が。最近は神社の境内にもできた。




畠山政長の系統は畠山尾州家と呼ばれ、
その後紀州に勢力を移して、戦国時代には
片桐且元、さらには豊臣秀頼にも仕えたが、
最終的には徳川家康のもとで江戸幕府の
高家の内の一家となって、幕末まで続いている。
数奇な運命だなぁと。

ちなみに畠山家の屋敷跡は上京区の畠山町
として残る。yahoo!地図より 知ってました?京都の地名って
深いですね。






  

Posted by らくたびスタッフ    at 14:39山村

2020年04月20日

明智光秀ゆかりの地 その3

新型コロナウィスルの影響で「光秀ツアー」も
ひとやすみに入りました。ここからは再開まで
バーチャルになりますが、お楽しみください。

今回は人気エリアの東山で巡ります。
スタートは地下鉄東西線の東山駅から。
地上に上がると左手には白川が流れており、
橋の南東角には道しるべの石碑には、なんと!
延宝6(1678)年の銘が入っています。

白川沿いに歩いて2分ほどで、餅寅さんという
和菓子屋さんの手前の路地奥にあるのが
明智光秀の首塚。一説には小栗栖で落ち武者狩りに
よって命を落とした光秀の首を家来(溝尾庄兵衛)
が知恩院まで運ぶ際に、こちらで夜明けを迎えて
しまい、人に気づかれるのを恐れてこちらに埋めた
とも伝わります。
約300年前に創業した老舗の和菓子店餅寅さん
これまで管理してきたとか。NHK大河ドラマ前
からの定番である( ここ大事!)
名物 「 光秀饅頭 」 は、今年
飛ぶように売れていることでしょう笑



さらに白川沿いを歩くと行者橋があり、知恩院への
参道が見えてきます。この知恩院は長らく御影堂を
修理してきましたが、つい先日ようやく参拝可能と
なりました。光秀と知恩院との繋がりははっきりし
ませんが、光秀の主君である織田信長は、
足利義昭が二条城で信長に対して挙兵をした際に
知恩院に布陣し、勝利を得たことから、知恩院に
感謝して銀や米、土地を寄進しています。




知恩院を出ると、青蓮院の前を通り、旧東海道へ。
この道沿いに粟田神社があり、現在は
旅行守護のご利益でも知られています。
その参道沿いには粟田焼発祥の地の石碑も。
旧東海道はウエスティン都ホテルで突きあたり、
三条通に戻るとそこは蹴上という地名の残った
場所。琵琶湖疏水のインクラインが残っています。

インクラインの下の「ねじりまんぽ」と呼ばれる
トンネルを潜って進むと南禅寺の塔頭金地院
へ到着。こちらは小堀遠州作の鶴亀の庭が
特別名勝に指定されていますが、今回の
お目当てはその庭にいたる手前の「明智門」
簡素かつ優美な唐門で、もともとは光秀が
大徳寺に母の追善供養で寄進し、大徳寺で
建てられた門でしたが、金地院にあった伏見城
の唐門が豊国神社へ移されたため、明治初めに
金地院が大徳寺から購入したとされています。



かつてあった豊国神社の唐門は、もともと伏見城に
あっただけにスケールが大きく、今の明智門の方が
金地院の雰囲気にとてもマッチしているなと感じました。
コンパクトに回れるこのコース。
外出自粛が解除されたらぜひ巡ってみてください。

※京都三唐門のひとつである豊国神社の
唐門(国宝)はこんな感じです。豪華絢爛!!




  

Posted by らくたびスタッフ    at 18:00山村

2020年03月12日

明智光秀ゆかりの地 その2

明智光秀のゆかりの地を訪ねて、続編をお届けしましょう。
前回に続いて本能寺から寺町通を北上します。
しばらくは両側に骨董品を扱うお店やアートギャラリーのお店が
立ち並びます。お茶の一保堂さんやパンの進々堂さんなど
京都らしいお店に立ち寄るのもいいですね。

寺社では町堂として、さらに観音信仰に支えられてきた
行願寺(革堂)や、御霊信仰の中心となった下御霊神社なども
寺町通に面しているので立ち寄ってみましょう。

丸太町通を越えて、左手に京都御苑を見ながら進むと、
京都三名水のひとつである染ノ井で知られる梨木神社
現れ、その向いの源氏物語の執筆の地に建つ寺院である
廬山寺に到着します。



こちらは、通常は源氏庭に咲く桔梗が見事で、
6月~9月にかけては花目当てに来られる方も多いですが、
今年は明智光秀の念持仏であったとされる地蔵菩薩
特別公開中です。



光秀が戦場にまで持っていったとされるそうで、なぜ廬山寺に
残っているかというと、比叡山焼き討ちの際、その実行部隊で
あった光秀に対して、時の正親町天皇から、この廬山寺は
もともと天台宗でも比叡山から独立した寺院であるから、
焼き討ちにはしないようにとの伝達があったため、
光秀の差配によって焼き討ちを免れたと伝わるからです。
今年11月末まで見ることができますので、ぜひ訪れてみて
ください。

さらに今出川通を越えて、戦国武将として人気の山中鹿之助
墓がある本満寺を過ぎていくと、東側に阿弥陀寺が見えてきます。



阿弥陀寺は開山である清玉上人が織田家と親しかったことから
本能寺の変の際には、いち早くかけつけて信長の遺骸(遺骨)を
収集して持ち帰り、葬儀を行った寺院と伝わります。
毎年6月2日には信長忌が行われ、この日限定で公開される
本堂の中で、信長の木像や書状を目にすることができます。
通常期でも墓参りは可能ですので、ぜひとも信長と子である
信忠、さらには森蘭丸など側近たちのお墓をお参りしましょう。



北側には額縁門で知られる天寧寺があり、こちらは公開予定は
ないものの、本堂修理の際に光秀の位牌がでてきたことから、
光秀となんらかゆかりがあったと考えられています。

戦国武将や光秀の息吹が感じられる寺町通、
ぜひこの機会にぶらりと歩いてみてくださいね。

次回は桜が咲く頃に、東山エリアへ。光秀の足跡を求めて歩いてみます。

山村
  

Posted by らくたびスタッフ    at 18:30山村

2020年03月07日

明智光秀ゆかりの地 その1

今年に入っていろいろと明智光秀のゆかりの地を巡りました。
今のところ、京都市内に限られますが、昨今のコロナウィルスの影響が
落ち着いたら、京都以外の地も訪ねてみたいなぁと思っています。

備忘録も兼ねて、今年訪れた場所を写真付きでご紹介しておきますね。

まずはなんといっても京都市内なら本能寺と本能寺跡でしょうか。
実際に光秀が織田信長を襲撃した際の本能寺と、現在の本能寺は
場所が違っています。本能寺は寺町御池付近、
本能寺跡は油小路蛸薬師付近となります。
最短で歩くと1.4キロ程で、充分に歩ける距離です。

<現在の本能寺>

<信長の墓(本能寺内)>

<本能寺跡>


実は散策では、この間に信長の嫡男であった信忠が滞在していた
妙覚寺跡や実際に光秀と戦って信忠が亡くなった
二条新御所跡も訪ねますので、距離は伸びます。
ここを歩くと、どうして1万3千の兵を持っていた光秀が、本能寺と
妙覚寺を同時襲撃しなかったのか、やっぱりわかりません。
妙覚寺跡までも本能寺跡から600メートル程しか離れてませんからね。

本能寺襲撃中に嫡男であった信忠が逃げるというリスクを考えたら、
光秀が天下への野望を持っていたとすれば、同時襲撃をしなかった
理由が見つかりません。

やはり信長を亡き者にすることだけで頭がいっぱいで、それ以降の
青写真が描けていなかったのでしょうか。光秀のその後の動きは、
どれも精彩を欠いたものばかりのように思えます。

そのあたり、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀の内面をどう
描いていくのか。今から楽しみですね!

次回は本能寺を出て、寺町通を北上します!



  

Posted by らくたびスタッフ    at 10:18山村

2020年01月24日

大盛況!まっぷる明智光秀講座を開催しました

1月13日(月・祝)に
らくたび編集・執筆の『 まっぷる明智光秀 』( 昭文社 )を記念した
特別講座を開催しました。

執筆を担当したらくたび代表・山村純也が講師となり、
明智光秀の魅力をたっぷりと解説。

光秀グッズが当たる抽選会もあり、大いに盛り上がりました。

ご参加くださいました皆さま、ありがとうございました。

最後は本を持って記念撮影!



2020年は明智光秀で盛り上がりましょう!


らくたび 森  


Posted by らくたびスタッフ    at 18:33